2008.04.21発行WIND FROM FUTURE Vol.21
2008.04.21発行
目次
■低コストでの安心・安全/ライフディフェンス2
■天井裏換気「風之介ブロワー24」/手ごろで確実な熱気対策
■ファイヤーウッドガード施工および燃焼実験
HISTORY OF S ~SEIHO小史~
第21回「涙の馘首」
松下を退職した私は、共同出費者に代わって、西邦商事の社長に就任した。同時に、松長電機の専務にもなった。
すでに書いたように、会社設立から、工場用地の取得、従業員の確保、仕事の手当に至るまで、陰になり、日なたになって、私が世話してきた会社だ。社長は大阪におり、出社することはめったになかった。
専務になった私は、誰にはばかることもなく、仕事を取ってこれた。従業員は百十人に増え、捲線の製造台数も毎月十〇万台の大台に達した。九州松下の協力工場としては、中堅クラスに成長していた。
昭和五十五年六月ごろだった。私は大阪に出張していた。出張先に、九州松下のC事業部長から電話が入った。
「大石さん、あんた知ってるか。あんたとこの社長が大分のモータ製造部に来よってな、急に松下の仕事をやめると言い出した」
寝耳に水とはこのことだった。
社長は私の留守を見計らって、大阪から高来町の工場に飛んできた。そして従業員を集め、
「松下の下請けは、来月から一切やめるよって、今月末で全員を解雇する。ただし、大阪から設備関係の仕事を移すよって、男子社員は雇うたる」
と宣言。その足で九州松下を訪れたのだった。
私には思いあたる節が、ないではなかった。
前年十一月ごろ、大阪の税理士が置いて行った松長電機の五十四年度決算書の役員を記載するところに、専務の私の名前がなかった。
問いただすと社長は、
「うっかりしとったんやわ。他意はおまへん。悪う思わんといてな」
一年余の間、専務の名前を使って、経営してきた私は、気分のよいものではなかった。社長に詫びを入れさせ、決算書を訂正させた。その一件が収まったころ、こんなことがあった。
「わしの工場に板金工が要るようになってな。大阪じゃ、人集まらへんねん。大石さん、あんた済まんが、そっちで採用して大阪に送ってくれへんやろか」
社長が電話してきた。
「そんなこと、できますか」
私は即座に断った。それからも、
「わしの工場で造る機械をそっちで造ってくれへんか」
と言ってきた。松長電機と社長が経営する大阪の会社は、完全に別法人で、業種もまったく異なっていた。私は板金・塗装に関心もなかった。
そんなことが重なって、それまでうまくいっていた私と社長の間に、溝ができた。
社長は、
「西邦商事が松長電機のうまみを吸収する」
などと、言いふらすようになった。私は、
「また、社長風を吹かせやがって」
くらいに思って、気にしないようにしていた。それがまさかこのような形で現れようとは、思ってもみなかった。松長電機の育ての親であるこの私に、何の相談もなかったことがショックだった。
「それで事業部長は何と言ったんです」
私は電話の主に訪ねた。
「わしはやめたかったら、やめたら良いと言うてやった。松長電機はもともと大石がつくった会社やんか。あんたとこがやめたら、仕事は全部、大石の西邦商事にもっていくから心配せんでも良いよ、と言うてやった」
受話器を通してC事業部長の特徴のある声が返ってきた。
松下の仕事がなくなれば、八十人の女子社員は職場を失う。
「わしが採用した以上、引導を渡すのは、社長ではなく、わしだ。あんたの勝手にはさせん。わしがやる」
社長に絶縁状を突きつけた。
八十人の社員の馘をこのとき初めて切った。そして自分を専務を辞めた。
「千々石工場までマイクロバスをだすから、よかったら西邦商事に来てください」
こう言うのが、私にできた精一杯のことだった。このときほど、つらく、自分が情けなく思えたことはない。